劣等感を克服する?なくす?仕事でも使える劣等感の対処法

モチベーション

こんにちは。
心理カウンセラーの幸跡です。

劣等感。日常生活のいたるところで飛び交い、それによって多くの人が苦しんでいます。劣等感を克服するために強くならないといけない、劣等感をなくすために無理をしないようにするなど、いろいろな向き合い方も目にします。

今回はそんな劣等感についてじっくり考えていきます。劣等感のとらえ方や意味や役割。またどうして人は劣等感を感じてしまうのか、それをどう処理しているのか。そしてこれからどう付き合っていけばよいのか。

読み終えた頃に、これまでの劣等感に対する見方や考え方が少しでも健全でプラスのものになれば幸いです。



劣等感は克服するものでもなくすものでもない

劣等感というワードを聞くと、漠然と良くないものや感じてはならないものというイメージがあり、また弱さや敗北、未熟さなどを連想させたりもしますよね。

それは小さい頃から受けてきた賞罰教育や生まれたときから身近にある競争社会などの影響もあり、そういったものから「劣等=悪」という当たり前が根付いてしまっているからではないかと思います。

◆劣等感の克服は出口のない迷路

はっきり言えるのは、劣等感とは克服するものでもなくすものでも、ましてや感じてはならないものなどでもありません。劣等感は一生克服できることはありません。なぜなら劣等感は問題でもなければ困難でもないからです。そもそも克服する必要がないということです。

問題でも困難でもないものを克服しようとしたりなくそうとしたりするから、太陽の真下にいて一生懸命光を探すみたいに出口のない迷路に迷い込んでしまうのです。

今こうして便利な社会の中で生きているのも、人間同士が仲間を作り協力できるのも、または誰かを仲間はずれにしようとすることも、勉強をすることも運動をすることもおしゃれをすることも、人間の行動のすべてがもとをたどると劣等感があるからできることばかりです。

今こうして僕がブログを書いていること、そしてこの記事を読んでいただいていることも、これも劣等感があるからできることです。そうでなければこうしたメッセージを伝えたいと思うことも、「劣等感」などで検索をかけることもないでしょう。

◆日常的に使用している劣等感

では劣等感とはどういうものかというと、一言で言えば心の中で燻るものではなく自分と他人の間で使われるものです。それは無意識的にですが、言い訳として使うか成長の素として使うか、破壊的な使い方をする人もいれば建設的に使う人もいます。

・劣等感を使って注目を集めたり人を支配しようとする
・劣等感を使って嫌いな人を遠ざける
・劣等感を使って自分を正当化する
・劣等感を使って人一倍勉強やスポーツに精を出す
・劣等感を使って自分の可能性や伸びしろを自覚する
・劣等感を使って理想と現実とのギャップを知る
・劣等感を使って誰かを守るため強くなりたいと感じる
・劣等感を使って人はひとりでは生きていけないことを知る

何が正しい/間違っているとか何が必要/不要ということではなく、こうして誰もが日常的に劣等感を使って自分の中にある目的を達成しようとしたり自分を表現しようとしています。

なのでこの劣等感を克服しようとしたりなくそうとする発想自体が、人間の精神生活に矛盾を生み支障をきたし、逆に苦しみを生んでしまっているように思います。

劣等感は事実ではなくただの主観

たとえば自分より仕事の成績がいい同僚に劣等感を感じる、自分より生まれのよい友達に劣等感を感じる。その人より劣っていると感じることはあくまで自分の主観的なものです。

何をもって優っているか、何をもって劣っているかは見る人によって変わりそれは絶対的な事実ではないということです。

仕事の成績を保つために周りに気を配れない同僚より、成績は低くても人を大切にするあなたの方が優っていると感じる人もいるかもしれません。生まれのよい友達より、貧乏生活の中強い生活力を持ったあなたを優っていると感じる人もいるかもしれません。

◆人間の価値に優劣はない

自分より頭がいいから優れている、器用だから優れている、容姿がいいから優れている、知識があるから優れている。これらに劣等感を感じ自分が人より劣っていると考えてしまう。その時点で、劣等感を言い訳に使っていると考えなければなりません。

もっといい環境に生まれていればこうはならなかった、だから仕方ない、自分は悪くない、悪いのは劣等感を抱かせる環境であり出会った人であり世界である。そう言っているのと同じことあり、劣等感を使って現実から背く自分を正当化しているだけです。

自分にはないものや変えられないものばかりに注目して、それがないから自分は劣っていると考える。逆にそれさえあれば自分はもっと優れていたはずと思ってしまう。そうやって空想の中だけで生きようとするのではなく、現実で今持っているものを最大限にどう使うかを考えなければいけないんです。

その今の自分が持っているものとどれだけ真面目にひたむきに向き合っているか、それが本当の人間の価値ではないかと思います。出生や容姿や財力や知識など、それでは人間の価値は計れず、ましてそれが人間の価値の優劣を決めるわけではありません。

なぜ劣等感を感じるのか?

劣等感は克服するものでもなくすものでもないし、劣等感を感じる人は弱い人でも未熟な人でもありません。劣等感は生きている以上その最期まで持ち続けるもので、それが正しく健全な人生です。

逆に言えば、劣等感を持っているからこそ人間は明日、またその明日と生きていけます。では、そもそもどうして人間は劣等感を感じるのでしょうか。ここは大きく2つに分けて考えていきます。

◆①比較により生まれる劣等感

ひとつは、人は常に何かしらと自分を比較し続けて生きているからです。たとえば、他人と自分との比較。または過去の自分と現在の自分との比較、そして理想とする自分と現実の自分との比較など。

他人と比較して自分にないものに執着することで劣っていると感じる。加齢や病気などで今までできていたことができなくなり、過去の自分に比べて今の自分を劣って感じる。そして理想とする自分と現実の自分とを比べそのギャップから現実の自分が劣っていると感じる。

このように常に何かしらと自分を比較し、そこから今の自分を差し引くことで常に劣等感を感じます。

他人が持っているものに劣等感を感じて変えられないものに執着してしまうのは問題ですが、たとえば「こうなりたい」と思う自分に対して感じる劣等感はいたって健全なもので、それは成長の素となるものです。

あまりに実現不可なものや現実の自分からかけ離れている理想でない限り、その理想の追求があるから人間は成長をしていきます。次で詳しく解説します。

◆②理想を追求することで生まれる劣等感

もうひとつは、人は常に今の自分よりよくあろうと理想や目標を追求し続ける生き物だからです。今の自分より強くなりたい、優しくなりたい、賢くなりたい、有名になりたい。そうやって常にプラスの方向へと生きていこうとするからです。

この理想や目標を設定し追求するために必要なものが劣等感です。今の自分よりよくありたい=今の自分に満足できない=今の自分に欠けている部分を感じている。理想や目標があるからこそ、人間は常に自分が何かより劣っていると感じるのです。

人が目標を持ち理想を追求し続けるためには、今の自分に満足しないよう常に自分の中の欠落している部分を見なければいけません。その部分を見せるのが劣等感の役割です。

ただ、本来努力や成長によってその劣等感を補っていかなければなりませんが、中にはそれを非建設的な形で補おうとする人がいます。

たとえば有名な人や権力のある人との仲の良さをアピールしたり、不幸な自分の境遇を自慢げに話してみたり、大きな身振り手振りや独特の言葉で注目を集めてみたり。これらもすべては劣等感を補おうとするための行動です。

たとえば「人に認められたい」という理想に近づくために、「自分は輪の中心にいなければならない」という目標を達成するために、上記のように努力をせず手軽な手段で優越感を得ようとします。その未熟さや浅はかさが察知されるから、上記のような人たちの多くは嫌われ煙たがられてしまいます。

良くも悪くもこのように自分の理想や目標を常に追求するため、そのためにはどうしてもその対となる劣等感が必要になります。劣等感があるからそれを補うために理想を設定するのではなく、理想があるからそこに向かうために劣等感が必要になるのです。



劣等感との付き合い方

劣等感は共存するもの、一生付き合っていくもの、人間個人の切り離せない一部分です。今自分が行っている行動すべてが紐解いていくと劣等感を補うための行動です。

それでは最後に、そんな劣等感をどのように見てどう付き合っていけばよいかについて考えていきます。

◆劣等感を使って何をしたいのかを考える

最初に書いた通り、劣等感は自分の心の中にあって燻っているものではなく自分と他人の間にあり誰かに向けて使われるものです。

なのでいくら劣等感を解消しようと環境を変えたり遊びに行ってリフレッシュしたとしても、消えることはありません。その都度他人との間に作り出され使われます。

なので、ここで考えないといけないのはその劣等感を使って自分は何をしたいのかということ。劣等感を言い訳として問題を投げ出したいのか、取り組まない理由としたいのか。それともかわいそうな自分を知ってほしいのか、恨みや妬みに変え誰かを遠ざけたいのか。

劣等感を「劣等感」という言葉で認識するとき、その使われ方の多くは非建設的なものです。劣等感は成長の素でありそれがあるから理想や目標を追うことができますが、もし自分ががむしゃらに理想や目標を追い求めている最中ならあえて「劣等感」とは認識されません。

なぜならそれは、そのような人たちにとっては「あって当たり前のもの」として認識されているからです。いつも吸っている空気のように、いつも浴びている日光のように、当たり前にあるものをあらためて認識する人はいません。

なので劣等感に押しつぶされそうと感じているのであれば、そのときは劣等感を使って自分は何がしたいのか、何から逃げて何を見ないふりをして何を遠ざけようとしているのかを一度考える必要があります。

◆他人との比較をやめる

劣等感を非建設的に使わないためのコツは自分と他人との比較をやめることです。他人と比較をしないためにはまず競争意識を捨てること、競争意識を捨てるためには他人を味方と思うこと、他人を味方と思うためには自分の問題としっかり向き合い自分を好きになること。

また機会があればこのあたりのことも別の記事で書いてみたいと思いますが、ここでお伝えしたいのは他人と自分を比較している限り劣等感はいつまでも劣等感として認識され、そのうち言い訳として使われるか先ほど書いたような誤った補い方をされるかのどちらかになるということです。

劣等感と付き合っていく覚悟を決め、そして劣等感は克服するものでもなくすものでもなく自分と他人との間で使われているもの、理想を追求し成長するために必要不可活なもの。そんな考え方をぜひおすすめします。

最後に

劣等感という言葉がこれほどまでに認知され、いたるところで良くない響きとして使われています。ただ、歴史も文化も教育も医療もこの世界を成長させているすべての根源は劣等感にあります。

どうして衣類がつくられたのか?

⇒シロクマは耐えられる寒さに人間は耐えられないその劣等感があったからです

どうして飛行機や船が発明されたのか?

⇒ 鳥や魚のように飛んだり泳いだりできないその劣等感があったからです

どうして携帯電話やコンビニやインターネットが生まれたのか?

⇒ より便利で快適な未来から見た不便な現実というその劣等感があったからです

どうして人は協力するのか?

⇒ ひとりではこの世界を生きられない弱い生き物であるという劣等感があったからです

どうして幸せを求めるのか?

⇒ 常に理想の自分と現実の自分を比べ、そのギャップに劣等感を感じるからです


劣等感とは、否定したり抑圧したりするものではなく心の中に燻っているものでもない。それは成長するため、何か目標を成し遂げるために必要不可欠なものであり、そしてそれは自分と他人との間で常に使われ続けているものである。

そんな考え方をぜひおすすめしたいです。「劣等感に押しつぶされそう」なんて言葉がなくなり、「劣等感のおかげでここまで成長できた」という言葉で溢れる社会になってくことを切に願っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。



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