物事や人の本質を見極め、見抜く!そのために必要な考え方

心理・メンタル

こんにちは。
心理カウンセラーの幸跡です。

「本質を見抜く」「本質を見極める」「本質を理解する」。いろいろなところでその重要性が語られ、それは物事を見通すために必要なスキルのような印象もありますよね。

本質とはざっくりと言えば「AがあるからこそBがBとしていられる」というAの部分のこと。それを誤解したり見誤ると正しくBを理解したり接したりすることができなくなります。

それではどうすればその本質を見極めることができるのか、そもそもどうして本質を見極める必要があるのか、じっくり考えていきたいと思います。



見えているものはほんの一部分

物事や周りの人のことを考えるとき、その入り口はどうしても今見えているものや聞こえているもの、今自分の感覚や意識が捉えたものになります。そしてその一部分を見てそれを対象に、これまでの経験からいろいろな可能性を見たり判断をしたります。

ただそれではその物事や人の本質、それをそれたらしめる根本的な性質を理解することはできません。なぜなら、今見えているものはその物事や人をつくるほんの一部分だけの要素だからです。

◆実は同じ線の両端にあるもの

嬉しい悲しい、暑い寒い、速い遅い、大きい小さい、重い軽い、明るい暗い、黒と白、1と100、愛と憎しみ、意識と無意識。これらは独立して真逆にある別のものではなくて、同じ線の両端にあるものです。ひとつの全体の中にあるひとつひとつの要素です。

これをそれぞれ片方にだけ焦点を当てて見ようとすると、その本質は理解できません。喜びを知りたいなら、悲しみを含めたその感情全体に目を向けなければなりません。黒について知りたいなら、白を知り赤を知りその色全体の中での黒の役割や価値を知らなければなりません。

真逆にある別のものとして見るのではなく、それはただ全体の中にあるひとつの要素。そう考えることで、それはなぜなければならないのか、それがあることで周りにどんな影響を与えているのか、それだけが持つ性質は何なのかなどその本質が見えてきます。

要素だけを見て判断すると本質を見失う

たとえば意識と無意識について。これらをまったく別のふたつのものとして捉える場合と、全体の中にそれぞれ要素として存在していると捉える場合。この違いについて考えてみます。

もしまったく別のものとして考えた場合。この場合は無意識的に行ったことは仕方がないこと、自分ではどうしようもないこと。なぜなら自分で意識できることではないまったく別のものだから。そう考えることができてしまいます。

そして無意識的に人を傷つけ無意識的に人を不快な思いにさせ、無意識的に自分の幸せを遠ざけていたとしてもそれは自分ではどうすることもできないという正当化につながります。

ただここで意識も無意識も自分の思考や行動というひとつの線の上にあるもの、自分の思考や行動のためにそれらが要素として使われていると考えるとどうでしょうか。

そうすると、意識的なものも無意識的なものもすべては自分が何かを考え何か行動を起こすために使われているものとなり、人を傷つけたり不快な思いをさせることに言い訳や正当化ができなくなります。そしてそれはすべて自分の責任であると捉えられるようになります。

◆ダイエットをする人

たとえばダイエットをしている人がいるとします。その目的は憧れの人に告白をするため。この人は「食べたい」という欲求を抱えながら「食べてはいけない」と自分を律しています。つまり、ここではまず「憧れの人に告白をするために、食べたいけど食べてはいけない」という意識があります。

ですが、告白するためには必ずダイエットをしなければいけないかというと、そんなことありません。ではなぜこの人は告白するためにダイエットが必要だと感じるのか。それはその裏で働いている無意識的な考えがあるからです。

それは自分を律することで「自分は強く正しい人間でありたい」という理想を叶えることかもしれないし、「自分の努力は人から評価されるべき」という欲求をダイエットを通して満たそうとしているのかもしれません。

もしくは「痩せていないのに告白することは恥ずかしいこと」という決めつけだったり「みんな太っている人より痩せている人が好きに違いない」という思い込みかもしれません。

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◆本質を知るための意識と無意識

どんな理由にしろ自分の意識的な部分と無意識的な部分が独立したまったく別のものと考えてしまうと、この人はいつまでも意識的な部分ばかりに目を向け「痩せていなければ誰かに想いを伝えてはならない」という思い込みの中で生きることになります。

そしてなぜ自分はダイエットをするのかという本質も、想いを伝えるとはどういうことか、誰かを愛するとはどういうことかという本質も知ることはできないと思います。

ただここで、「憧れの人に告白するために食べてはいけない」という意識と「自分は強く正しい人間でありたい」という無意識は同じ線の上にあるただの要素で、同じ方向に向かっているものと考えることができたらどうでしょうか。

つまり、自分が強くあるためには自分を律する必要があり、自分を律するためには強くなくてはならないという風に、意識と無意識が「自分の理想を追求する」という行動をするために補い合っているものだと考えられたら。

きっと「痩せていなければ誰かに思いを伝えてはならない」なんて思い込みからは脱却し、食べながらできるダイエット法を探すかもしれないし、もしくはダイエットをやめても構わないと思えるようになるかもしれません。

それは同時に、ダイエットや想いを伝えることの本質に気づけた瞬間でもあるのではないかと思います。




見えているものが属する全体を見る

物事や人の本質を見極めるには、その物事や人が属する全体を見る必要があります。それは会社や学校や家庭といった共同体だけに限らず、人間個人にも言えることです。

人間個人の中にも、先ほどの意識や無意識があり、感情や理性があり、心や身体があり、それぞれ別々のものと見られるものが多くあります。ただそれぞれの本質を理解しようとするとき、やはりどちらか片方だけを見てもその本質はわかりません。

感情を理解するならその人の理性的な面も知らなければならないし、心の動きと身体の動きの関係を知ればもっと心がなぜ人間に必要なのかもわかってきます。

どんなものであっても、今見えているものが属するその全体を見る。それがそのものごとの本質を理解するために必要になります。

◆人と関わることの本質

たとえば人間が人の間で生き他人と関わる本質は何か。それを考えるとき、ひとりの人だけに注目するのではなく、人間が属する社会を見ることで、どうして人は人と関わらなければならないかが見えてきます。

人はその生物的な弱さから、どうしてもひとりでは生きていけません。そのため仲間をつくり協力しながら生活をしていきます。人との関りを大切にしましょうと言われますが、それは善悪や道徳的な基準ではなく、そもそも人は社会に属さないと生きていけず、社会に守られて生きていくからです。

赤ちゃんはその弱さから親から守られますが、大人になっても人はその弱さから社会に守られながら生きていくんです。ただそのためには自分も社会に貢献していかなくてはなりません。そのとき人との関りはどうしても必須になってきます。

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◆ルールを守ることの本質

たとえばルールや規則を守るその本質は何か。このときもやはりルールや規則だけを見ていてもその本質は見えてきません。ルールや規則はひとつの組織の中につくられます。その組織が健全に運営されていくために必要なのがルールや規則です。

これも道徳的な観点からではなく、ルールを守らないとその組織が壊滅してしまうため自主的に守っていく必要があるんです。これを目の前に突き付けられたルールや規則だけを見て考えると、義務感を感じたり不当な要求をされているような気持ちになってしまいます。

今見えているものが属している全体を意識してみる。そしてその中でどんな役割があってそれがないと自分や周りにどんな影響を及ぼしてしまうのか。そこを見ようとすることで、本質がわかってくると思います。

全体を見るための考え方

ではそれが属している全体を見るためにはどうすればよいのか。その考え方としてひとつおすすめしたいのは、ひとつひとつの要素が全体を動かしているのではなく、その全体が動くためにひとつひとつの要素を使っているという考え方です。

上の例で言えば、ひとりひとりの人間が社会を動かしているのではなく、社会全体が健全な状態であるためにいろいろな性格や能力を持った人間がそこに属していると考えます。

これは決して人を物として見るということではなく、自分が社会を動かしているのではなく社会が健全な状態であるために自分はその一員として属していると考えるということです。この考え方ができないと、ついつい自分中心に世界を見てしまい、周りの人は自分に何かをしてくれる人という見方をしてしまいます。

そしていろいろなルールがありそれが組織を動かしているのではなく、その組織が存続してくためにひとつひとつのルールが使われていると考えます。

組織の方針が変わればルールも変わります。今度はその組織がよりよい成果を出すために別のルールが使われることになります。そのとき目の前のルールにばかり固執し続けていると、方針や時代の変化についていけなくなりなぜルールを守らなければならないのかまた悩むことになるでしょう。

◆人間個人においても同じこと

これは人間個人でも同じことです。先ほどのダイエットの例のように、意識的な行動と無意識的な行動が別々にありそれらが人間個人という全体を動かしているのではなく、人間個人が自分はこうありたいという理想に向かって動くために、意識的な行動も無意識的な行動も使われていると考えます。

感情的に怒ってしまうときも理性的にそれを後悔するときも、それが原因で何かしらの行動を引き起こしているのではなく、個人という全体が何かの理想に向かうために必要だから感情的に怒ったり理性的に後悔したりするということです。

たとえば「自分は相手に支配されてはならない」という理想のために感情的な怒りを使ったり、「自分は過ちを正せる人でありたい」という理想の為に理性的に後悔したりするというように。

感情的な面も理性的な面も、それが人間個人を突き動かしているのではなく、人間個人がひとつの目的を果たすためにこれらの面を使い分けていると考えます。そのとき怒りや後悔とは何なのか、何のために存在しているのかという本質が見えきます。

社会・組織・個人問わず、このように全体が何かしらの行動をするためにそこに属するひとつひとつの要素を使っているという考え方ができると、その要素の存在価値がわかりそれをそれたらしめる本質が理解しやすくなると思います。

最後に

物事や人の本質を見極めようとするとき、今見えているもの聞こえているものはその一部分でしかありません。その物事や人をつくる全体の中にはそういった部分がいくつもあり、それらは独立してある別のものではなく、その全体がある目的に向かうときに持ち出され使われるものです。

なので、物事の本質を理解したいならその一部分に目を向けるのではなく全体を見る必要があります。そしてそのいくつかの部分が動くことで全体が動くのではなく、その全体が動くために部分が使われているという考え方が大切になります。

そしてその全体からひとつひとつの部分を見たとき、はじめてその部分しか持っていない性質や役割、価値などが見えその本質がわかってくると思います。

何かの本質を理解したいと思うとき、それは今まで以上にその物事に興味を持ちそれが今の自分にとって必要だと感じているときです。

その貴重な機会に、本質を見誤り正しくその物事や人と接することができないということがないように、ぜひ今回の考え方がひとつの参考になれば幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。



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